常識の落とし穴。~新橋心療内科コラム
そもそも「常識」とは、いったい何なのでしょうか。
たとえば、ある家庭では「食事中にテレビをつけない」のが当たり前でも、
別の家庭では「家族みんなでテレビを見ながら食事をする」のが当たり前かもしれません。
ある会社では「始業30分前に出社するのが常識」でも、
別の会社では「始業時間に間に合えば問題ない」と考えられているかもしれません。
つまり、私たちが「常識」だと思っていることの中には、
実は自分が育った環境や、所属している集団の習慣にすぎないものも多いのです。
心理学には「社会的証明」という考え方があります。
これは、周囲の多くの人がしていることや、正しいと考えていることを、
自分も正しいと判断しやすくなる心理のことです。
たとえば、行列のできているお店を見ると「きっとおいしいんだろうな」と思ったり、
多くの人が支持している意見を聞くと「それが正しいのかもしれない」と感じたりします。
もちろん、多くの人が支持していることが、判断の参考になる場合もあります。
ただし、「多くの人がそう思っていること」と「本当に正しいこと」は、必ずしも同じではありません。
さらに注意したいのは、そもそも本当に多くの人がそう思っているのか、という点です。
「普通はこうするでしょ」
「社会人なら当たり前だよ」
「そんなの誰だって知ってるよ」
こう言われると、なんとなく反論しづらくなります。
しかし、よく考えてみれば、
その人が自分の意見を「常識」という言葉に置き換えているだけかもしれません。
「私はこうしてほしい」
と言えば、あくまで個人の希望です。
ところが、
「普通はこうするものだ」
と言えば、まるで社会全体がそう決めているかのように聞こえます。
これでは、意見の違いがあるだけなのに、相手のほうが非常識であるかのような印象を与えてしまいます。
もちろん、世の中には法律や安全上のルール、他人への配慮など、広く共有されるべき大切な決まりもあります。
だから、すべての常識を疑えばいいというわけではありません。
大切なのは、「常識」という言葉だけで納得しないことです。
誰かに「そんなの常識だよ」と言われたら、心の中でこう考えてみてください。
「それは本当にみんなの常識なのかな?」
「それとも、この人にとっての常識なのかな?」
そして、自分自身が誰かに「普通はこうでしょ」と言いたくなったときにも、
少し立ち止まってみる。
もしかすると、それは単に「自分はこう思う」という話なのかもしれません。
「常識」という言葉は便利ですが、ときには自分の意見を必要以上に強く見せてしまうことがあります。
だからこそ、他人の常識にも、自分の常識にも、少しだけ疑問を持ってみましょう。
それだけで、人間関係の余計な衝突が減り、もっと柔軟に物事を考えられるようになるのではないでしょうか。
今回の話、何か少しでも参考になることがあれば幸いです。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。
(完)



